わたしたちに何ができるか
クビになっても助けたい
奮闘した社員は、本社や角田工場だけではありませんでした。宮城でホームセンターを運営するグループ企業ダイシンは、震災の翌日から独自の判断で営業を再開しました。電池や毛布などを求めて、被災者が店頭に押し寄せたからです。
停電が起こり混乱する中で、店員たちは入り口で必要なものを聞き、店内から探しては打っていました。生きていくのに必要なものを買わなければならないのに、お金がない。そんな状況で、手元に現金がない人にはノートに名前と買った商品を書き留めてもらい、お金は後でいいからと商品を手渡しました。そのお金は、全額返ってきました。
気仙沼店では店長が暖房用の灯油1人10リットルまで、無料で配布しました。
雪が降り、寒さでこごえる住民がいる。目の前に灯油がたくさんあるが、手元にお金がない人が多い。本部には電話がつながらず確認ができない。そんな状況で、気仙沼店の店長は「クビになってもかまわない」と、お客さまに灯油を配りました。
緊急時に本部からの指示を待つのではなく、常に相手の立場に立って考えるという「ユーザーイン」の発想を身に着け、自分自身で判断し動いたからこそできたことでした。
後日談があり、彼はダイシンの社長になりました。このエピソードが社長就任の直接の理由ではありませんが、このような判断のできる人が評価されるのです。
地域の人は、助けてもらったことを忘れず、どうせ買うなら助けてもらった店で買いたいとその後もお店に足を運んでくれるようになりました。
節電需要からLED照明の増産を決定
地震により大規模発電所が停止したことで、電力供給量が足りない状況が続きました。これによる大停電を回避するために、計画停電が実施され、日本中の皆さまがさまざまな知恵を絞って節電に取り組んでいました。
当時、日本の全電力の約15%が照明に使われており、これをLED化すれば6%の電力削減が見込まれました。そこで、節電に貢献しLED照明の需要増に対応するためラインナップを大幅に拡充し、生産設備を増強しました。
震災から約2か月後の5月、LED照明の受注量は前年の3~5倍に達しました。素早く増産に踏み切っていなければとても対応できる量ではありませんでした。LED化のニーズに新製品開発と供給力の向上でお応えしていくことで「安全で安心な社会づくり」という大きなテーマに対し、その一端を担うことができたと考えています。このことを機に健太郎は当社の新しいあるべき姿を見出していました。「ホームソリューション」から「ジャパンソリューション」へ。生活者の不満解決から日本の課題解決へと事業の幅を広げることを意識し始めたのです。
被災地の若者に働く場を
東日本大震災は被災地の生活だけでなく若者たちの進路にも大きな影響を与えました。多くの新規学卒者が内定先企業を失ったり、採用内定の取消しを受けるなど苦しい思いをしました。
そこで、例年の100名の新卒採用枠とは別に「被災者特別枠」を設け、被災地から30名の高校生を採用していくことを決めました。一般に高校生は大学生よりも就職内定率が低く、また親元の近くで働きたいという志向が強い傾向にあるためです。対象は震災で自宅を失ったり、両親のいずれかを亡くした方とし、寮や社宅を準備することで生活面もしっかりサポートすることとしました。 また、それまで宮城県南部中心だった求人エリアを宮城県全域や福島県にも広げました。
また、健太郎は並行して震災直後から地元の経営者たちにも働きかけました。「1人でも2人でもいいから震災地の高校生を雇ってくれ」と頼んで回りました。
経営者には、経営者にしかできないことがある。地元の経営者を元気づけ、若い起業家も育てたい。そのための事業を始めよう、そう決心しました。