社員の団結と、復旧
震災発生直後、わたしたちにしかできないこと
2011年3月11日14時46分、会長の健太郎は出張で千葉県の幕張メッセにいました。
突然強烈な横揺れに見舞われ、すぐに仙台に帰ろうと車に飛び乗りましたが、被害は想像以上でした。高速道路は使えず渋滞に巻き込まれ、しかも道路は福島で寸断されてしまっていました。
結局、健太郎が仙台に戻ることができたのは、震災発生から2日経った3月13日の朝のことでした。
社員の安否に続き建物設備の被害状況を確認すると、本部機能を有する角田I.T.Pでは電気通信水道と全てのインフラが停止していました。多くのキャビネットが倒れ、ホールの天井は落ち、物流センターの自動倉庫からは多数の荷物が崩落していました。
生活に欠かせない物資を数多く供給するメーカーとして、一刻も早く供給体制を復旧しなければなりませんでした。しかしその一方で、その復旧を担う社員たちもまた被災者でした。 社員の自宅の再建や家族などの捜索を最優先させるべきではないのかと、健太郎は悩みました。しかし、今まさに東北の人々が私たちの商品を待っているのは彰かでした。
考え抜いた結果、本社工場の機能回復を優先することを決断します。一刻も早く工場を復旧して、人々が求めているものをお届けすることこそが「自分たちにしかできないこと」ではないか、そう考えたのです。
工場復旧への団結
健太郎が仙台に戻った翌日、角田工場に集まった社員を前に、1日も早く工場を復旧し、生活物資を供給することが被災地への最大の貢献になるという想いを訴えました。そして、宮城県に対して3億円の義援金を送り復興をサポートすることを伝えました。
未曾有の災害のなかで、多くの社員が自分は何をすべきかと思い悩んでいました。しかし、健太郎が明確に方針を打ち出したことで社員たちの気持ちは一つにまとまり、工場復旧に向け一丸となり動き出すことができました。
健太郎もすぐに仙台本社に向かい、TV会議システムで全国の拠点と情報が共有できる体制を構築し、事業継続に向けた策を打ち始めました。
後日健太郎は記者から「余震が続き、決して安全とは言えない地域に経営トップが入ることに不安はなかったか」と問いかけられ、こう答えています。「そんな不安は全くありません。それよりも、トップが一大事に現場に駆けつけることの方が重要なのです。現場を見なければ適切な指示ができない。一大事であればあるほど、現場に出ることが重要です。」
早期復旧への過程
東日本大震災からの早期復旧を実現するための鍵となったのはガソリンの調達でした。
仙台港の製油所が壊滅的な被害を受けたことを知ると、健太郎はすぐに関西のお取引先を通じガソリンと軽油を積んだタンクローリーを手配し、社員の通勤やお取引先への配送が滞らないようにしました。また、貴重な燃料を大切に活用するため、関東からマイクロバス5台をレンタルしました。
燃料不足からガソリンスタンドには長蛇の列ができていました。通勤手段が確保できず、社員が2週間近く自宅待機せざるを得ない企業もありましたが、早めの対策により当社は復旧を進めることができました。
また、情報システムの速やかな復旧も早期復旧を果たすための大きな鍵の一つでした。
角田I.T.Pにある基幹システムのサーバーは停電によりダウンしてしまいましたが、停電によりシステムが停止した場合には他工場のバックアップシステムに移行できる体制づくりに取り組んでいました。阪神淡路大震災で兵庫県三田工場が被災した経験があったためです。
この体制があったことにより、3月15日には全ての得意先からの受注を処理できるようになりました。
国内最大級の2万6千パレットの収容能力を持つ角田工場の自動倉庫では、保管されていた大量の製品が棚から崩れ落ち床に飛散していました。
高さが約30mある自動倉庫の中で、電気が通るまでは懐中電灯の明かりが頼りでした。社員たちは暗闇のなか、そして大きな余震の続くなか、命綱を頼りにまさに決死の覚悟で作業に取り組みました。体を動かす原動力となったのは、被災地に物資を届けたいという使命感と、自分たちの職場を取り戻したいという強い意志でした。
被災から約1週間後、電気が復旧してからは生産設備の復旧作業も始まりました。
機械を震災前の精度に戻すため、1台ごとに点検試運転の繰り返し。なかなか水道が復旧せず、福利厚生施設のプールの水を利用して機械を動かしました。
このようにして工場の修復に努めること約10日。私たちは工場の操業を再開することができました。全国の皆様からのご支援に加え、経営者自らが現場で情報を集め判断し、明確な方針指示を出したこと、そして人々に役立つ製品を一刻も早くお届けするのだという想いで社員が団結できたことがいち早い復旧に繋がったと考えています。