アイリスオーヤマは、プラスチック製品の下請け町工場「大山ブロー工業所」として創業しました。
「アイリス物語」では、現在に至るまでのアイリスグループの歴史を連載でお届けします。
第一話下請けから始まった「大山ブロー工業所」

19歳で家業を継ぎ代表に就任した大山健太郎
1958年、高度経済成長ににぎわう戦後の大阪。先代の大山森佑が東大阪にプラスチック製品の下請け加工をする小さな町工場「大山ブロー工業所」を創業しました。プラスチックは当時の先端工業で、大山ブロー工業所が誕生した1958年は、ちょうど日本で本格的に大量生産されるようになった年でした。
その頃は、社名の通りプラスチックを膨らませる「ブロー成形」という方法で、メーカーから依頼されたプラスチック容器を生産していました。日本の生活用品がプラスチックに置き換わり始めた頃だったので、小さいながらも注文も多く、充実した毎日でした。
創業から5年後の1963年夏。森佑がガンにかかり、余命半年と宣告されました。
息子であり、現会長である大山健太郎は当時高校三年生。自身が立ち上げた「東大阪映画研究会」で毎日のように洋画を研究し、大学受験を控えるごく普通の受験生でした。しかし、父の病気により進路は一変。8人兄弟の長男として一家を養うため、映画監督になる夢と大学受験をあきらめ家業を継ぐことを決心したのです。
そして日本が東京五輪に沸く1964年7月、父の逝去に伴い弱冠19歳の健太郎が「大山ブロー工業所」の代表に就任したのでした。
その頃の大山ブロー工業所は、プラスチック製の工業用薬品瓶などを生産する下請けで、年商はわずか500万円。従業員数5名の零細な町工場でした。高校を卒業したばかりで商売のいろはもわからない青年は、まずは来た依頼をすべて「Yes」で受けました。難しい依頼も工夫しながらこなしていくうちに、次第にブロー成形のノウハウと技術が蓄積されていきました。
やがて健太郎は「町工場のオヤジで一生を終えたくない。メーカーになりたい」という強い意志を持ち始めるのでした。
(第二話に続く)
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1964年
シャンプー容器 -
1964年
工業用薬品瓶
- 『ブロー成形』
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容器などの製品を作るのに適したプラスチック成形加工法の一種。
原理は吹きガラスと同じで、プラスチック原料を溶かしパイプ状にし、金型ではさんで空気を注入して膨らませる成形方法。