アイリスオーヤマは、プラスチック製品の下請け町工場「大山ブロー工業所」として創業しました。
「アイリス物語」では、現在に至るまでのアイリスグループの歴史を連載でお届けします。
第二十六話東日本大震災発生 工場復旧への団結
2011年3月11日14時46分。健太郎はその時、本社のある宮城県ではなく「ドラッグストアショー」が行われていた千葉県の幕張メッセにいました。突然強烈な横揺れに見舞われ、駐車場に避難するとアスファルトの継ぎ目から砂が噴き出していました。1978年の宮城県沖地震を体験していた健太郎は、震源は宮城県沖だと直感。 すぐに仙台に帰ろうと車に飛び乗りましたが、被害は想像以上でした。高速道路は使えず渋滞に巻き込まれ、しかも道路は福島で寸断されてしまっていました。仕方なくホテルを見つけてチェックインし、テレビをつけると想像を絶する光景が映し出されていました。仮眠を取るはずが、事実を目の当たりにし寝付くことができませんでした。
結局、健太郎が仙台に戻ることができたのは、震災発生から2日経った3月13日の朝のことでした。
社員の安否に続き建物・設備の被害状況を確認すると、本部機能を有する角田I.T.Pでは電気・通信・水道と全てのインフラが停止していました。多くのキャビネットが倒れ、ホールの天井は落ち、物流センターの自動倉庫からは多数の荷物が崩落していました。

生活に欠かせない物資を数多く供給するメーカーとして、一刻も早く供給体制を復旧しなければなりませんでした。しかしその一方で、その復旧を担う社員たちもまた被災者でした。電話もメールも繋がらず、安否の分からない社員、知人や親戚の行方が分からない社員もいました。自宅の再建や家族などの捜索を最優先させるべきではないのか−。健太郎は悩みました。そして考え抜いた末、本社工場の機能回復を優先することを決断します。津波被害の現地にはまだ、一般人は立ち入ることができませんでした。ならば、一刻も早く工場を復旧して、人々が求めているものをお届けすることこそが「自分たちにしかできないこと」ではないか、そう考えたのです。
翌日、健太郎は角田工場に集まった社員を前に、1日も早く工場を復旧し、生活物資を供給することが被災地への最大の貢献になるという想いを訴えるとともに、宮城県に対して3億円の義援金を送り復興をサポートすることを伝えました。社員のなかには、知人がボランティア活動をしているなかで、後ろ髪を引かれる想いで出社した者もいました。未曾有の災害のなかで、多くの社員が自分は何をすべきかと思い悩んでいました。しかし、健太郎が明確に方針を打ち出したことで社員たちの気持ちは一つにまとまり、工場復旧に向け一丸となり動き出すことができました。健太郎もすぐに仙台本社に向かい、TV会議システムで全国の拠点と情報が共有できる体制を構築し、事業継続に向けた策を打ち始めました。

後日健太郎は記者から「余震が続き、決して安全とは言えない地域に経営トップが入ることに不安はなかったか」と問いかけられ、こう答えています。「そんな不安は全くありません。それよりも、トップが一大事に現場に駆けつけることの方が重要なのです。現場を見なければ適切な指示ができない。一大事であればあるほど、現場に出ることが重要です。」
(第二十七話に続く)